セオリーと真似事
こんばんは。
昨日帰ってきてから書きかけてたけど睡魔に負けました。
今日はセオリーと真似事、ということで日本人の良し悪しを少し述べたいと思います。
正直、今の日本は真似事すら満足に出来ないレベルにきていると思ってます。
どんどん高度化していく世の中で、なんとなくでしていた真似事は「真似事の真似事」で本質が見えなくなり、セオリーが大事になってきています。
だからこその警鐘です。
セオリーとは
セオリーという言葉、聞いたことはあっても何となく使ってるって人が多いんじゃないでしょうか。
理論や持論などを意味し、まぁ大体皆さんの想像であってると思います。
一般的に、こうやるのがこれのセオリーだ、と言ったように規範となる筋道(理論立てられたもの)として使われます。基本や基礎、とも言えますね。
さて、それがまぁ昨今騒がれてる標準化、明文化というものに繋がってきます。
何かしらの事象を安定して発生させるセオリー、それを文字や図、形に起こしたのが標準化と呼ばれるものですね。
真似事の現状
セオリーはまずここで一旦置いておいて、もう1つの副題、真似事、そう、日本人は真似事が上手です。
ベテラン職人であれば、物を渡してこれと同じ物を作ってくれ、と頼むと大体全く同じかそれ以上の高品質の物が出来たりします。
誰々のやっていることを真似ろ、と言えば何とかして真似て一人前になります。技は目で見て盗め、なんて昔よく言われてましたよね。
日本人は真似るのが好きなのか、真似る事がいい事だと教育という名の洗脳されてきたんでしょうね、暇あれば周りを見て周りと同じことをしたがります。
そしてその行動のセオリーを個人なりに理解します。
画一的、没個性、日本で美徳とされ、海外から異常視される日本の文化です。
教育現場でも正にこれが実行されていますよね。
さて、物事を真似る時、同じ事をする時、みなさんは考えていますか?
あの人 は なぜ これを このように こうして いるんだろう、と。
ここが正にタイトルで言いたかったことです。
ただ見様見真似、コピーは日本人にとって簡単なことなんです。中国なんかは見様見真似のクオリティがかなりおかしいですよね、苦手なんでしょう、真似事が。
しかし日本人はそこで手を加える。
周りを気にするがあまり、もっと良くしよう、だの考えます。
そうやって自己の考えを入れる人は非常に多く、会社に出ると尚更その色が強くなります。
では、その自己流、セオリーに基づいてるでしょうか?
理論を理解して実行しているでしょうか?
そしてそれを経験としてセオリーに反映しているでしょうか?
多くのケースはしていません、それを持論に置き換えます。
持論も意訳的にはセオリーですが、世の中に昔からあるセオリーとは裏付けの量、つまり理論の証明という点が大きく差が開いています。
日本人は真似事は好きですが、そこに理論を理解してからのアプローチが入りません。
逆に日本以外の国はセオリーが整っていれば物は作れます。
セオリーが古いまま、そこにオリジナリティが入ったものを要求した場合、日本なら当たり前に出来ていたことが海外では出来ません。
(セオリーが古いから)古いものを求められてるのに、なぜセオリーに則って仕事をすると、日本人がする仕事とは違うものになるんだい?
私は決められた事は全てこなしている、どこがどう違うのか納得いかない。
そう思うのです。
自己流というのは真似事が間違っていた場合、間違いが派生します。
その間違いに気付かず文書化してしまえば、間違いの拡散が始まります。
そうして、多くの人の目に触れてから間違いを指摘され大ごとになるのです。
某製鉄会社の品質問題や、車でよくあるリコールの大体の原因はここですね。
守らなければならない部分を守らず、どこかで掛け違ったボタンが当たり前になってしまっている。
何にしても事象には邪魔な物を取り除いた際に残る要素があります。
宇宙のステルヴィアってアニメ作品がありますが、主人公しーぽんが課題をクリアするのにどんどん余計なものを取り払ってシンプルにしたシーンがあります。
イメージはまさにそんなところ。
そこに色々付け足したのが自己流です。
自己流に自己流を付け足しても万人が同じように出来るセオリーになりません。
それでは今後の人が減り、格差が嫌でも開く世界の中で、ロボット化することも出来ずに淘汰されていきます。
業務改革などで悩まれてる方は、是非この点を追求してみてください。
きっと、本来のセオリーが見えてくるはずです。
真似事をする必要はなく、本質を見据える事が大事なのです。